こいねがう、心 01
(──ウイルスがボーカロイドを完全に侵食するのにかかる日数は十日)


「ますたー」


 家へ帰って、扉を開けると同時。レンの柔らかな声が聞こえてきて、それと同時に彼が駆け寄ってくるのが見えた。靴を脱ぎ、足を踏み入れる。彼はの傍に立つと、柔らかく笑みを浮かべた。


「おかえりなさいっ、ええと、きょうの、がっこうは、たのしかった、ですか」
「ただいま。うん、楽しかったよ」


 たどたどしい口調で言葉を紡ぐ彼は、とても愛らしい。頭をさらりと撫でて、言葉を返すと彼は頬を真っ赤に染めた。


「ますたー、が、たのしいなら、ぼくも、たのしいです」
「そっか。レンが楽しいなら、も嬉しいなあ」


 そう漏らすと、彼は笑い声を零した。つたない口調、歌うときとは大違いだ。ちらりと視線を向けると、彼は呼応するように笑みを浮かべる。
 ──鏡音レン。それが、彼の名前だ。ボーカル・アンドロイド。略称して、ボーカロイドという、機械。歌うためだけのアンドロイド、って言ったら良いのだろうか。彼のほかにもボーカロイドは一杯居て、初音ミク、それに彼の分身の鏡音リン、あとはカイト、それにメイコという種類がある。
 ボーカロイドなんて、高い買い物をしたきっかけは、友達に教えて貰った、ある動画投稿サイトによる。そこでは彼の歌声に惚れ、すぐさま購入を決意した。DTMなんて、やったことなかったし、パソコンについてだって初心者に近いけれど、何とかオリジナル曲を作るまでに至っている。それを、動画投稿サイトに上げたことはないけれど。酷評されるのが目に見えてるし……、まあチキンなのだ。とどのつまり。

 ちなみに、彼を買った時、素体タイプはどちらにしますか、と店の人に問われた。なんだかしらないけれど、鏡音リンの形をしている方か、レンの形をしている方か、どちらかを選べられるらしい。どちらを選んでも機能は変わらないらしいので、レンのタイプを選んだ。
 元はといえば、ボーカロイドを欲しいと思ったのはレンの動画を見てからなんだし、の選択は正しいものだった、と思う。

 買った当初から、もう数ヶ月は過ぎている。レンは柔らかな声で、の入力する言葉とメロディを奏でてくれる。それが、とても幸せで、嬉しかった。最初に曲が完成したときなんて、レンと二人で手を取り合って喜んだ。

 ……なんか、こう、過去に浸ってしまった。とにかく、はボーカロイドを持っている。鏡音レンという、ボーカロイドを。

 レンが無言になったを不思議に思ったのか、手を引っ張り、「ますたー?」と呼びかけてきた。それにふと笑みを零し、「ごめんごめん、じゃあ、ご飯を食べようか」と返す。すると、彼は輝くような笑みを浮かべ、に抱きついてきた。


「ますたーの、つくるごはん、ぼく、だいすきです」
「そっか。ありがとう」
「ますたーのこと、だいすきです!」


 服に埋めていた顔を上げ、レンはそう呟いた。好意を率直に表してもらえるのは、本当に嬉しい。
 も、大好き。そう言って、レンの体を抱きしめる。レンは恥ずかしそうに少しだけ体を揺らした後、小さく呟いた。


「ますたーに、すきなひとができても、ぼく、ますたーのことだいすきですからね」


 はにかむような表情、それにつたなくつながれる言葉。これにキュンとしない人が居るだろうか。はキュンとする。
 レンってば可愛い、すごく可愛い! 思わず抱きしめた手に力を込めると、レンが「わ」と言う驚いた声を出した。


「ますたー?」
も、レンに好きな人が出来ても、レンのことが大好きだよー!」
「……ぼくのすきなひとは、ますたー、だけです」


 若干、どもって言葉を紡ぐレン。可愛いなあ。他のボーカロイドもこんな感じなのだろうか。そう思うと、他のも欲しくなってくる。無意識に緩む頬をそのままに、はレンから体を離し、「じゃあ、台所でご飯作るから」と言う。すると彼は「はい! まってますね、ぼく」と言っての体から離れ、駆けていく。

 レンに包丁を握らせたことはない。なんていうか、彼は危なっかしい感じがする。……自分の指とか切っちゃいそうだ、うっかり。……いや、あの皮膚の下は機械で出来ているから、切ることなんて出来ないだろうけれど。
 とんとん、と規則良く包丁で食材を切っていく。耳朶を打つのは、リビングにあるテレビから流れてくるニュースの音だ。


『──続いてのニュースは──』


 男の人の声。ニュースキャスターが男の人なのだろう。余り気にせずに右から左へ聞き流していると、レンが「ますたー!」と叫んで台所までやってきた。まなじりが下がっている。泣きそうな表情を浮かべ、彼は言葉を続けた。


「さいきん、ちかくで、ひとがいっぱい……さされているみたいです」
「え? ああ、刺されて……ってか、通り魔でしょ?」
「……うえ、ええ、と、たぶん、はい」
「それがどうかしたの?」


 優しい声音で紡がれた物騒な言葉に驚いてしまう。刺されて、って……。いや、たしかに、そのとおりだけどさ。
 食材を切る手を止め、彼の言葉に首を傾げる。すると、レンは手を胸の前で居心地悪そうに動かしながら、「だ、だって、ますたーが、あぶない……」と泣きそうな声を出した。


「大丈夫だよ、きっと」
「で、でも……。ますたー、ぼく、おくりむかえ、したいです」


 微かに顔を俯かせ、彼は青い瞳を伏せる。さらりと金色の髪の毛が彼の頬にかかり、柔らかく影をおとした。
 心配してくれるのは嬉しいけれど、なんていうか、レンは過保護な気がする。レンの心配性は今に始まったことではないけれど。彼は本当に些細なことでを心配する。微かに息を吐き、はレンの頭に手を置いた。安心させるように軽く叩く。


「大丈夫だって。今まで無かったんだから、これからも無いって」
「そんなあ……。ますたー、ぼく、しんぱい、なんです」
「大丈夫だよ、レンが気にすることなんて無い」


 軽く頬を膨らませ、彼は「でも……」と言葉を続ける。


「ぼくが、にんげん、だったらよかった、のに」
「……何で?」


 頬を膨らませていた息を吐き出すと同時に紡がれた言葉に、思わず問い掛けてしまう。レンは唇を尖らせたまま、小さく呟く。


「そうしたら、ますたーのこと、まもれる、のに」
「……」


 苦笑を漏らす。彼はの表情に気付き、「ますたー」と怒ったような声を出した。それに軽く謝りながら、大丈夫だよ、と続ける。
 彼は眉をひそめて不機嫌な表情を浮かべていたが、すぐにそれを解き、軽く微笑んだ。


「ぼく、にんげんに、なれるかな。……なりたいなあ。ますたー」


 舌足らずの声から生み出されるのは願望、だ。叶うことの無い。ただ、それを否定する術をは持ち合わせていない。本当のことを言ってどうするのだと言うのだ。“ボーカロイドは人間になれないよ”なんて、言うべきじゃない。
 彼は無垢で、優しい。外見年齢は十四歳と言うものの、生まれて──というより起動されて──から、数か月しか経っていない。人間でいえば赤ん坊だ。純粋で、優しくて、愛らしい。そんなレンを、は傷つけることなんて出来ない。
 は軽く微笑んで見せて、レンの頭を撫でた。彼の頬が柔らかな色に染まる。


「うん、なれるんじゃないかな。きっと」
「そうかな、ますたーがいうなら、そうですよね! ぼく、しらべてみます……!」


 意気込むレン。それに小さく笑みを零しながら、は調理を再開した。夕飯を作り終えたのは、その何時間も後。
 リビングに置いてある机にご飯を並べながら、パソコン前に座っているレンを見る。
 レンはパソコンの前に座って、自身の首とパソコンを繋いでいた。付属のケーブルで。きっと、インターネットか何かを使って「人間のなりかた」についてでも、調べているのだろう、と思ったので邪魔はしないよう、そっとしておいた。

 ご飯をゆっくりと食べ終えた後も、レンはパソコンの前に座っていた。かすかにかりかり、という何かを書きこむ音が聞こえてくる。レン、と声をかけても反応しない。どうしたのだろう、と思いながら近寄っていく。彼の肩に手を置き、レン、と強めに呼びかける。すると体をびくりと震わせて、レンはに振り返った。


「ますたー?」
「何度も呼びかけたのに、どうしたの?」


 今までは一度呼びかけたら直ぐに返事したのに、と小さく漏らす。するとレンは頭を垂れ、やわやわと頭を振ると、小さく呟いた。


「すみません、きづきませんでした」
「……そっか、なら良いけれど、何を見てたの?」
「え、ええと、にんげんの、なりかたについてしらべていたんです。そしたら、」


 彼は笑みを浮かべた。微かに頬を赤くさせ、嬉しそうに言葉を弾ませる。


「みつかったんです」


 え、と小さく声を漏らす。まさか。そんなことがあるはずがない。言葉を無くしていると、彼はケーブルを自身の首から抜き、をじっと見つめてきた。
 何かを探る様な瞳。どうしたのだろう。そんなことを思いながら、はご飯を並べた食卓を指さす。


「ご飯、食べる?」
「あ、ええと、いいです……、ちょっとすみません、ぼく、なんだか……つかれてるみたい、です。……ねますね」


 ご飯を食べない、というのはレンにしては珍しい。というか、今さっきまで食べる食べると言っていたのに。軽く首を傾げ、「そっか」とだけ呟き、彼を見送る。足取りがなんだかおぼつかない気がする。彼が自室のドアを開ける音が聞こえてから、はパソコンに視線を向けた。
 本当に、調べてある。該当件数はゼロ。──レンは見つかったと言っていたのに、あれは嘘だったのだろうか。首を傾げる。少しだけモニターを見つめた後、ウィンドウを消し、電源を消した。

 見つかるなんてことはないはずだ。というか、該当件数がゼロなのだから、無いに決まっている。──明日、訊いてみようかな。どうしたら人間になれるの、なんて。ダメか。傷つけてしまうかもしれない。

 疑問が頭をめぐる。数分考えて、まあ良いか、という結論に至った。なんにしても、レンが喜んでいるのならも嬉しい。その喜びに水をさすなんてことはしないでおこう。
 かすかな決意を込めて、机の上に置いてあるご飯を片づけ、布団を敷いては眠った。


 ──変化は、次の日の朝に、訪れた。


続く


2008/04/19

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