こいねがう、心 02
 (──ウイルスに感染したボーカロイドは、流暢に話すようになる)


 朝、何かに頭をぶつけて目を覚ました。……え、何にぶつかったのだろう。じくじくと痛みを訴える頭をさすりながら、目蓋を開いた。とたん、息を呑む。目の前にレンの顔があったからだ。
 驚いて、どうしようもなくて、眠気なんてどこかへと行ってしまった。起き上がり、布団から咄嗟に出る。起きたばっかりのせいか、力の入らない足で立ちあがる。よろけた。壁に手をつき、彼の名前をたじろぎながら、声に出す。


「れ、レッ、レン!?」
「……マスター」


 伏せられていた瞼が上がり、空色の瞳がを見つめた。綺麗、とか、そういうことを想っている場合じゃない。っていうか、なんで、どうして此処に。
 口の開閉を繰り返す。レンは上半身を起き上がらせて、にこりと笑った。


「おはようございます、マスター」
「え、あ、おはよう、って、えええ、なんで、の、布団の中に……」
「僕、さみしかったんです。……一人、が。駄目でしたか」


 首を軽く傾げて、レンは問いかけてきた。や、駄目ってことはないけれど。何を返すこともできず、口を閉じる。レンは布団から身を出すと、立ち上がりに近付いてくる。


「──マスター、駄目、でしたか?」
「……え、あ、いや、そんな、ことは……ないよ……」


 首を振る。レンは柔らかに微笑むと、「それなら、良かったです」と息を吐いた。……良かった、っていうか、の心臓が持たない、っていうか。
 胸に手をあて、レンを見る。彼は変わらずに微笑んでいた。──というか、ちょっと待って、なんていうか。


「言葉……りゅうちょうに、喋って、ない?」
「……え、そうですか? 僕、いつもこんな感じでしたよ。マスターの気のせいじゃないですか」
「そんなことない」


 断言できる。昨日まで、そう、昨日の夜まで、レンはたどたどしく言葉を紡いでいた筈だ。あの、柔らかい声で、つたなく。頭を振ると、レンが「……なんで」と呟くのが聞こえた。微かに俯かせていた顔をあげる。彼は、悲しそうな表情を浮かべていた。


「なんで、そんなこと、言うんですか」
「え……、え?」
「僕、今までもこんな風でした。マスター酷いです、僕のこと……」


 レンの瞳にかげが差す。彼はゆるゆると頭を振ると、に近寄って来た。目の前で止まり、首を傾げる。


「──嫌い、なんですか」


 声がやけに冷え冷えとしていた風に聞こえたのは、気のせいではないだろう。
 ……本当に、なんで、昨日まではこんなレンじゃ──。
 思わず、彼の顔をまじまじと見つめる。レンはの視線に気づくと、ますます表情を歪めた。


「……マスター?」
「あ、え、ええ?」
「──僕のこと、嫌いなんです、か」
「そんなことは無いけれど……、ただ、ちょっとおかしいなって、思っただけだから、その、ごめん」


 弁解のようにそう紡ぐ。本心としてはちょっとどころでなくおかしく感じていたけれど、まさかそれを本人に言うわけにもいかない。が言葉をしゃべり終えると同時に、レンは表情を和らげ、軽く笑った。いつもの笑みに、少なからずほっとする。

 ──そういえば、今は何時なのだろう。八時だったら、もうそろそろ出かけなければならない。時計を探す──とたん、レンの手が頬に当てられた。
 え、なに。なに? 彼は手に力を込め、の顔を固定した。え、本当に、いったい。
 視線が交わる。彼はにこりと笑った。


「なにを探しているんですか?」
「え、時計、時計だよ」
「なんでですか」
「なんで、って……。だって、今日は平日だし」


 出かけなきゃいけないよ。そう言うと、彼は途端に眉をひそめ、微かに不機嫌さをにじませた声音で呟いた。


「別に、良いんじゃないですか」
「何が」
「外。行かなくても」
「は、はあ? 何を言ってるの、レン」


 彼の手を頬からはなそうと試みる。強い力で固定されているせいか、首が痛い。はなそうと、どれだけ彼の手を引っ張ってもびくともしなかった。強い声で名前を呼ぶ。


「──マスター、だって、危ないです」
「なにがっ」


 感情の怒りが声に乗って外へ出る。レンはやっと、の頬から手をはなすと、柔らかく笑った。


「外は、危ないです」
「危なくないよ。昨日も言ったじゃん、大丈夫だって」
「第一、もう遅いですよね」


 レンの視線がから外れ、何処かへと向かう。辿る様に視線を追うと、時計が目に入った。短い針がさしているのは、十という数字。……って、え。


「な、なん、なんで!」


 目ざましをかけておいたはずなのに。枕もとの時計に視線をやる。時計の針は、六の数字で止まっていた。近くに、電池が転がっている。
 ──電池を外した覚えなんて、無い。焦りのあまり泣きそうだ。昨日、無意識に外したのだろうか。そんなこと、今まで無かったのに。
 それよりも、何よりも、早く出かけないといけない。今日は、今日も、行かなければいけないところがあるのに。


「な、なんで、時計、電池……っ」
「僕が外しました」


 レンの楽しげな声が耳朶を打つ。彼に視線を向ける。彼は、笑っていた。


「だって、うるさいじゃないですか。ずっと思っていたんです。マスターの迷惑になるって」
「な、ならないよ! 何してるの、本当に! 怒るよ!」


 怒りのあまりか、語調が荒くなってしまった。レンは心底不思議そうに、眉尻を下げると、「なんで怒るんですか」と語気を上げる。
 な、なんで怒るんですかって……。怒りか、それとも呆れのせいか、言葉が出ない。心を落ち着けるために息を吐き、は頭を振った。


「も、もう良い、早く行かなきゃ──」
「なんで、なんで怒るんですか」


 着替えを取りにいくの手をレンが掴む。あああ、もう! 強引に振り払おうとするが、彼の手はしっかりとを掴んでいるのか、はなれない。イライラとする。なんで、こんな。彼を睨みつけるように見る。


「決まってるでしょ、時計を止めたからじゃん! も、もう、お願いだから、早く行かせてよ、これじゃ遅刻──」
「なんで、……なんで? なんで、ですか? 僕、悪いことしましたか? 怒らないでください、嫌わないでください、マスター」
「もう、レン! やめて! はなして、は出かけなきゃ」
「いやです、マスター、危ないです、外は危ないです、僕はマスターを守りたいんです」


 振り払う。レンの手が離れた。な、なんなの、本当に、急に。というかマスターを守りたいって、昨日も言ったはずだ。守らなくても良い、大丈夫だと。
 彼と視線を合わせる。青が揺れている。


「……マスター」


 彼の桜色の唇から、言葉が漏れる。でも、聞いている暇はない。このままじゃ、というか、完全に遅刻している。なら、早く行かなければならない。彼の言葉をさえぎるように言葉を発する。


「もう、続きは後で、帰ってきたら! わかった!?」
「──」


 レンは口を開き、閉ざした。ゆるゆると頷き、から離れて何処かへと行ってしまった。きっと自分の部屋だろうと憶測をつけ、はすぐに着替える。持ち物を入れたカバンを手に持ち、玄関で靴をはいて──さあ、外に、と扉のノブに手をかけた途端、後ろから引っ張られた。


「……レン」


 振り向く。彼は顔を俯かせていて、表情が良く見えない。さらりと垂れている前髪の隙間から、柔らかな色の唇が見えた。


「──僕も行きたいです、送り迎えをしたいです」
「レン、言ったでしょ、良いってば」
「でも、でも、危ない──、だから──」
「レン!」


 声を荒げる。彼の体が震え、腕をつかんだ手が離れた。やわやわと顔を上げ、彼はを見る。


「なんでそんなワガママを言うの? 大丈夫だから、じゃあ、いってきます!」
「ます、た」


 扉を開け、体を外に出す。鍵を閉める。そのまま、は走りだした。微かに、扉を叩く音が、背中に聞こえた。


続く


なんという主人公。でも、普通はこうですよね。

2008/04/21
inserted by FC2 system