レンが家へやってきた、あの日のことを今でも覚えている。金色に光を反射する柔らかな髪。伏せられた睫毛が頬にかげを落としていた。──皮膚は、健康的な色をしていて、僅かに頬が朱色に染まっていた。
 彼の体なの中には内蔵電池があって、それは何十年も、何百年も動けるほどの容量があるらしい。が死んでも、彼はずっと動くのだ。彼の名前を呼ぶ。ただ、それだけの行為で彼は動きだす。ずっと。

 ──体はセーラー服で包まれていた。視線をすっと下げると、パンツとレッグウォーマーのようなものの間から、頬と同様に、桃色に染まった膝小僧が見える。
 レン、鏡音レン、そう呟いた。すると、レンは瞼をゆるゆると開き、周りを見渡し、と視線を合わせた。碧がかった瞳が覗く。彼は恥ずかしそうに笑みをこぼし、桜色の唇で言葉を紡いだ。


「──ます、たー。はじめまし、て?」


 こいねがう、心 03
(──ウイルスに感染したボーカロイドは感情の起伏が激しくなります)


 家路を急ぐ。空の色は柔らかなだいだい色に染まりつつあった。
 ──学校では、正直、レンのことが気になって講義も余り耳に入らなかった。右耳から入って左耳へと抜けていく、そんな感じ。
 レンが、今まであんな風になったことはなかった。だとしたら、理由があったはずだ。遅刻は確定していたのだし、聞いてあげれば良かった。何があったの、なんて。彼は答えてくれるはずだ。
 あーもう、本当、朝に訊いておけばよかった。

 小さくため息を吐く。──レンに悪いことをしたんじゃないかなー、なんて思う。ううん、これはお詫びの意味もかねて、彼の願い事を一つくらいかなえてあげるべき、だろうか。
 どうせバナナ食べたいとか、ドーナツ食べたい、とか、豆腐食べたいとか言うのだろうなあ。もしかしたらうまい棒かもしれない。まあ、なんにしても、そういう食べ物関連だったら良いのだけれど。無理な注文をされたら困るなあ……。

 肩を落とす。いつのまにか、家の前についていた。扉に鍵を差し込み、開ける。ただいま、と言う言葉を発するよりも早く、力強く引っ張られた。


「な、えっ」


 たたらを踏みながらも家の中へと入る。突然のことに驚いて、咄嗟の行動が出来ない。
 気づいた時には、廊下の壁に背中を叩きつけられた。むせて、咳が出る。顔の近くに手がつかれていて、辿るとレンの姿を見つけた。ってことは、今さっき引っ張ってきたのは、レン?
 廊下の電灯はついておらず、微かな外からの光だけが部屋の中を満たす。レンと視線が合う。彼は悲しそうな表情を浮かべていた。


「マスター、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい──」
「え、な、何が?」
「僕、悪いことをしたんです、よね……。マスター、すごく怒っていたじゃないですか。僕、僕、ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい、ごめん、なさい」


 ひたすらに謝るレン。何故か背筋が寒くなった。感情があまり込められていない声で、何度も何度も謝られたから、だろうか。彼は顔をおおい、ずるずるとその場に座り込んだ。


「本当に、ごめんなさい──、僕、僕、マスターに捨てられたくないです」
「は? え、あ、捨てないよ。それより」


 崩れ落ちるように座りこむレンの背中をさする。なんていうか、混乱、しているのだろうか。優しく、出来る限り優しく、撫でつける。口に出す声も、優し気なものになった。


「ごめんね、朝は。ちょっと、その、イライラしてて……、レンにあたっちゃったね、ごめん」
「……マスター」


 空いている方の手で、電灯のスイッチを入れた。廊下に光がともる。それと同時に、レンがやわやわと顔を上げ、と視線を交えた。
 彼は微かに濡れた瞳でを見つめる。ほのかな色合いの唇がわずかに開き、か細い声を紡ぎ出す。


「怒って、ないんですか」
「怒って、うん。怒ってないよ、ごめんね」
「……マスター!」


 レンの顔に、柔らかな喜色が広がり、微かな朱が頬に散らされる。レンは嬉しそうに笑みを浮かべると、何度も何度も「よかった、本当によかった」と呟く。そこまで、喜ぶもの、なのだろうか。でも──、


「──で、レンを傷つけちゃったから、うん、何か願い事を聞いてあげるよ。何か欲しいものはある? に出来ることなら、何でも言ってね」


 嬉しそうな様子を見ると、こちらまで嬉しくなってくる。微かに頬を緩ませながら、は問いを投げかけた。とたん、レンの声が止まる。


「なんでも、ですか」


 彼の口元が怪しげな形をかたどる。瞳が強くを見据えた。


「なら、僕──マスターが欲しいです」
「……へ」
「マスター、どこにもいかないでください。ずっとそばに居て下さい」


 レンの手がそっとの頬を撫でるように触れてきた。彼は指先をそっと顎伝いに下ろすと、微笑む。
 ……背筋がゾクリとした。……が欲しいって、それは無理な願いっていうか、なんていうか。


「……は、無理だよ」
「なんでですか」


 申し訳なく返事をすると、強く詰問するような声が返ってきた。レンの手で頬を包まれる。彼はの顔をしっかりと固定すると、顔を近づけてきた。吐息がかかる位置で、彼は続ける。


「なんで、ですか?」


 手の平に力を込められた。痛い。ちょ、レン、と小さく言葉を漏らす。レンの耳には届かなかったのだろうか。彼はますますの顎に力を強く込め、──笑った。


「僕はマスターが欲しいです。マスターが欲しいです。マスターが、欲しい、です」


 顎を締め付ける手がゆるゆると首周りに落ちる。ちょ、っと、待って。これはまさか。背筋が粟立つ。案の定、彼は首をしめるように指先を這わせた。喉の奥が緊張のせいか、閉まる。微かに息がしにくくなった。


「ちょ、れ、レン、やめ──」
「何でもしてくれるんですよね。言いましたよね。今」
「や、やめ、本当に止めて、レン!」


 ゆるやかに指先に力が込められた。ちょっと待って、こんな、なに、なに、いったいなんなの。
 レンの手の拘束を解こうと、は彼の腕を掴む。瞬間、彼は微かに体を震わせた。すっと手を離す。彼の体がにわかに震え始めた。抱きすくめるように自身に手を回し、彼はろれつの回らない声で言葉を発する。


「──あ、ぼ、僕、マスター」
「もう……、どうしたの。朝からおかしいよ、おかしい。絶対におかしい。……メンテに行く?」


 喉をさすりながら、彼から距離を取る。これは本気でメンテに連れていくべきだろう。レンが怖い。まさか、そんな感情を抱くことになろうとは思わなかった。
 彼は微かに顔を俯かせた。震えが止まっている。静寂な部屋に、呟きだけが響く。ボーイソプラノの、柔らかな声で、レンは一つの言葉をあふれ出すように呟いていた。


「いや、いや、いや、いや、やだ、やだ、や、だ、やだ、やです、いやです、いや……嫌だ!」


 レンは俯き、頭を何度も振り、拒否の意を示してくる。そこまで嫌なのか。でも、レンは正直……高かったから、壊れて欲しくはない。
 置いた距離を縮め、彼の肩に手を置く。言葉は、絶え間なく彼の唇から漏れ続けていた。


「いや、嫌です、いやだ、いや、いや、やだ、やだ、やだやだやだやだ」
「レン、でも、壊れてからじゃ遅いんだから、メンテ行こうよ」
「僕──、僕は壊れてなんか居ない。マスター、ひどいです、マスターひどい、マスターひどい、ひどい、ひどい。僕は壊れてない、壊れてません──」


 彼の手がの手をつかんだ。がっしりと、逃げないように力を込められ、の手は動かなくなる。俯いた顔が上がる。彼は、唇だけを半月形にして、微笑んでいた。何か、良いことを思いついたような表情。


「マスター、今までも大丈夫だったから、これからも大丈夫、ですよね」
「それとこれとは……」
「違いません、だから、大丈夫です。壊れて、ない。僕は壊れていません、マスター」


 碧に陰がさす。彼はの手を掴んだまま、何度も大丈夫、大丈夫です、大丈夫と続ける。ゾッとした。思わず、「そ、う。なら、良いや、うん、ごめん」と言う言葉が口をついて出る。何故か、そう言わないといけない、と思った。彼はまなじりをほのかに下げ、


「はい」


 一言、呟いて、の手から自身のそれを離した。それと同時に、は身を引く。掴まれた手が赤くなっていた。微かにしびれるそれを片方の手でさすっていると、レンが「マスター」と甘い声を出し、距離を近めてきた。


「──マスターがもらえないなら、明日を僕に下さい」
「へ……」
「明日は休日ですよね。マスターの学校は無いはずです。だから、良いですよね。僕の傍に居て下さい。僕を調律して下さい」


 まくしたてられるように言葉を紡がれる。何も言えず、唖然としていると、レンは一旦、言葉を止め、同意を求めるように首をかしげた。


「──良いですよね。だって、マスターは言いました」
「……え、」
「何でもする、って」


 確かに、今さっき言ったけれど。でも、明日は折角の休みだから、家でゆっくり、趣味でもしようかなー、なんて考えていたんだけどなあ。
 ……まあ、断る理由もないし……。頷く。するとレンはパッと顔を輝かせ、笑った。そうして、に近寄って来たかと思うと、抱きついてきた。彼の顔が肩口に埋まり、嬉しそうに笑う声が耳朶を打つ。しばらくして、彼はから体を離し、頬を染めて、言葉を発した。


「あ、あと、もう一つ良いですか」
「え? あ、うん」


 後もう一つ。願いことのことだろうか。多少の疑問を感じながらも、再度、頷く。レンはますます笑みを深くして、続ける。


「僕、今日からマスターと一緒に寝たいです」
「……へ」


 思わず変な声を出してしまった。彼は良いですよね、と有無を言わさぬ口調で続け、笑う。
 や、良いですよね、って、駄目に決まって──。言葉を発しようとした途端、レンの瞳がを射抜くように見つめた。冷やかな視線だ。言いかけていた言葉を飲み込む。彼は口のはたに笑みを乗せ、優しげな声を出した。


「──僕、寂しいのは、嫌です。マスターの傍に、ずっと居たい」



続く

ヤンデレン……?

2008/04/25
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