「──や、さみしいって……」


 何となくレンから視線を外し、は頭を軽く掻いた。今まで、そんなこと言わなかったじゃない、としか言いようがない。ちらりと視線を向けると、彼の碧玉のような瞳がを見つめてくる。光のない、濁ったような瞳の色だ。……なんだか前と違う? と疑問が過ぎる。レンは首を傾げると、「僕」と言葉を発する。


「マスターに危害は加えません。約束します」
「そんなこと言われても」


 今さっき、首を絞めそうになったのは危害じゃないんですか、と思う。別にレンがに対して何かをするということを危惧しているわけではないけれど、正直、彼が怖いという気持ちがある。
 でも、断ったら彼はまた──先刻のように、首を絞めてくるかもしれない。恐怖が胸の内を満たす。そんなことされるぐらいなら、まだ、一緒に寝た方が、断然良いだろう。

 こくりと頷く。レンの嬉しそうな声が耳朶を打った。



 こいねがう、心 04
(ウイルスに感染したボーカロイドは、音程を上手く取ることが出来なくなります)



 そうして、夕御飯を食べ終えて──夜。布団を敷いていると、レンがやってきた。いつもの服ではなく、前に買ってあげたパジャマを着ている。と視線が合うと、頬を染めて笑った。


「マスター」


 柔らかな声でそう呼び、レンはわずかに笑い声を零す。何がそんなにも嬉しいのだろう。布団に二つ、枕を置き、電気を消してから入りこむ。次いで、レンももぞもぞと入り込んできた。
 レンに背中を向け、横向きになって眠ろうとしていたら、そっとお腹の部分に手が回された。ぎゅっと抱きしめられる。背中越しに伝わってくるのはレンの体温だ。


「レン?」


 何をしているのだろう。そう思って、彼の名前を呼ぶ。彼は、やっぱり微かに笑った後、小さく言葉を零した。


「あったかいです」
「……そうですか」


 あったかい、と言われても何と返せば良いのやら。無難に返事をすると、レンが「マスター」とを呼んだ。


「こっち向いてください」
「……へ、何で?」
「マスターを見ながら眠りたいです」
「見てるじゃん」


 背中だけれど、と心の中で付け加える。レンは拗ねたような声で「そうじゃなくて」とこぼした。──背中から伝わってくる体温は、すごく温かい。そのせいか、眠気がいつもより早く訪れてきた。返事もぞんざいなものになる。レンは小さく身じろぎすると、の体を前よりも強く、抱きしめてきた。


「──マスター」
「んー」


 くすくすと笑う声が聞こえてくる。あー、眠い。眠い。寝る。寝させて。
 レンはそんなの心情も知らず、言葉を弾ませた。


「マスターのこと、守りたいです」
「そー」
「はい。マスターの傍に居て、ずっとずっと、マスターのことを守りますからね」
「んー」


 やばい。レンと話している最中に寝オチしてしまうかもしれない。瞳をこすり、眠気を払うように努める。あ、やばい、こすりすぎて涙が出てきた。
 レンは声のトーンを落とすと、続けた。


「でも、僕の寿命はマスターよりながいから……」
「そうだね。何百年か生きるんだっけ」
「はい。でも、マスター、心配しなくても大丈夫ですよ。マスターが死んじゃったら、僕も死にますから」


 ほがらかに紡がれた言葉に、僅かに冷たいものを感じる。眠気がふっとんだ。死んだら、僕も死ぬって……。それは、なんていうか、後追い……。なんだか、それは嫌だ。小さく咳をし、口を開く。


「……別に、死ななくても良いよ」
「……え、な、んで……ですか? マスターは僕と離れたら、寂しくないんですか?」


 ……というか生きているのに死ぬ死ぬ連呼するのは止めてほしい。心の奥底でそんなことを考えながら、言葉を続ける。


「寂しくはないよ」
「な、んで……、そんな、でも、僕は寂しいんです、マスターが居なくなったら、寂しい、すごく、寂しい。僕にはマスターしか居ないのに、マスターが居なくなったら、やだ、やだ、やだやだやだ!」


 締め付けるように、抱きしめた手に力が加わった。ちょ、辛いです、レン。中身がっ、出るっ。レンの手に自分の手をそっと重ね、優しくさする。背中を向けているから、彼の頭を撫でることはできない。


が死んでも、レンは生きていてね」
「……やだ。いやです。マスターの命令だろうと、僕は嫌です。僕にはマスターしか居ないのに、マスターは僕だけのものなのに、マスターが居なくなったら、居なくなったら……。……居なくなっちゃ、やです……」


 最後の方、レンは呟くように吐き捨てた。居なくなっちゃ、いやって。まあ、でも、居なくなるのはまだまだ、何十年も先のことだというのに、彼はどうしてこう。……心配症、っていうか、なんていうか。
 小さく嘆息を漏らし、「大丈夫だよ」と続ける。


「まだまだ、何十年もあるんだから」
「……そ、うですよね……。そうですよね! まだまだ、まだ、大丈夫ですよね」
「うん」


 にわかにレンの声が弾んでくる。少しの間を置き、彼は呟くように続けた。


「マスターの傍、ずっと僕が居ても良いですよね」
「……え」
「マスター、僕のことが好きですよね」


 問いかけるような調子。や、好き、うん、好きだけれど。頷いて、レンには見えないだろう、と考え、声に出す。レンは恥ずかしそうに笑った後、の背中に顔をうずめてきた。興奮のせいか、熱くなった吐息が服を通して伝わってくる。
 くぐもった声が、耳朶を打った。


「僕とマスターはずっと一緒です、ずっと、ずっと……ずっと──」


 それきり、レンの声が聞こえなくなった。眠ったのだろう、と予想をつけ、も本格的に寝に入った。


 次の日の朝、起きるのは早かった。理由は簡単で、レンに起こされたから、だ。朝早く。まだ夜明け前だというのに、レンはを起こし、パソコンまで手を引いてきた。椅子に座らされる。パソコンは電源がついていて、モニタには調律画面が映っている。レンに視線をうつすと、彼は朗らかに笑い、「調律、してください」と言った。
 こんな、朝早くから、しかも起きたばかりで、頭が働くわけもない。何を打とうか、何を歌わせようかと迷うだけでも何時間も時間が過ぎていく。レンはその間、ずっとの傍に座って画面を見ていた。

 なんでもいい、のだろうか。ちらりと視線をやると、彼はと視線をからめ、笑う。小さく息を零し、は確認するように言葉を発した。


「なんでもいいの?」
「はい! マスターが作るものなら、なんでも、僕、マスターに調律されるの大好きです!」
「そ、うですか……」


 なら、もう、簡単なものでいいだろうか。ぽちりぽちりと音と言葉を入力、それに調整を加えていく様子を、レンは笑い声を零しながら見ていた。
 お昼頃、一通り出来たのでレンに歌ってもらうことにした。おかしいところがあったら、直すためだ。

 レン、歌ってくれないかな。そう言うと、彼は嬉しそうに頷き、その場で声を音に乗せ始めた。


「……え? ちょっと、ごめん、ストップ」
「え? あ、はい」


 おかしい。レンの調律画面を見て、音の入力を間違っていないか、確かめる。あっている、あっているはずなのに。レンが首をかしげて、申し訳なさそうな声を出す。


「どうかしましたか、マスター」
「え……、あ、ううん。ごめん、もう一度歌ってくれない?」
「はい」


 レンの表情に柔らかさが戻る。彼は胸を膨らませて息を吸うと、もう一度音を発し始めた。
 一音、最初の一音で思った。おかしい。音程が違う。ともすれば不協和音、というよりも簡単に言えば音痴に聞こえる。耳を押さえる。気持ち悪い音だ。レンがの様子に過敏に反応して声を止め、悲しそうな表情を見せる。


「え、な、……マスター、僕、なにかおかしかったですか」
「……」


 気付いていない。音程を外していることに。図らずも言葉を無くす。レンはに近寄り、肩を揺すってきた。


「な、なんですか、マスター、僕、変でしたか、どうして耳を塞ぐんですかっ」
「──音、外れてた、よ」
「え……?」


 事実を述べると、彼の顔色がさっと変わった。血の気が無くなる。柔らかな色の頬をかすかな青が染めた。レンはから離れ、頭を振る。


「そ、んなことないです……、だって、僕はボーカロイドですよ、音が外れるなんて、そんな……嘘、ですよね」
「嘘じゃない。こことここ、それに──、ううん、ほとんど外れてた。どうして?」


 レンの唇が震える。彼は再度、頭を振ると俯いた。


「わ、かりません……、そんな、嘘です、嘘ですよね?」


 悲痛な声だった。嘘じゃないよ、と事実を述べるのが心苦しくなるような。無言で居ると、彼はしゃくりを上げはじめた。肩が震えるたびに、床に涙が落ちていく。


「嘘です、嘘です、嘘ですよ。そんな、僕は、僕は──壊れていない──」
「レン、やっぱりメンテに行った方が」
「僕は壊れてなんか、居ません!!」


 語気が荒くなる。レンは顔を上げると、を睨みつけるように見据え、「なんで、そんなことを言うんですか!」と怒鳴りつけてきた。
 怒ってくる理由がわからない。はただ、レンを心配して言っただけだというのに。胸の内にわだかまりが積もっていく。


は、レンを心配して」
「心配しているなら、放っておいてください!」
「……レン、怒るよ」


 声が低くなった。レンの体が震える。何、いったいなんなの? 心配したのがそんなに不満なのか。レンの怒りで紅潮した頬から色が抜け、ぼろぼろと涙がこぼれおちてくる。


「あ、ま、すたー」
「良いよ。じゃあ、放っておいてあげる。は外出するけれど、レンは家にいればいいじゃない」


 立ち上がり、彼に背中を向ける。むしゃくしゃした気分が心を支配していく。着替えをさっさとすませ、は玄関口で靴をはき替えた。レンが驚いたような表情を浮かべ、駆け寄ってくる。
 でていこうとするの手を驚くべきほどの強い力で掴み、ひきとめてくる。


「なに、レン、出て行くんだから、手を離してよ」
「うそ、嘘です……すみません、ごめんなさい、どうしたら許してくれますか」


 ビブラートが、かかったような、震えた声だった。彼はの手を両手でしっかりと掴むと、引っ張って来る。二、三歩、たたらを踏む。レンはの手を掴んだ手を絡め、簡単には外れないようにした。涙声で続ける。


「許して下さい、ごめんなさい、一人にしないでください、一人に、しないでください……、お願いです、許して下さい……、ごめんなさい、ごめ、っなさい、ごめんなさいぃ……」


 ぐいぐいと引っ張られる。彼の力は強く、の力では到底、敵わない。嘆息し、は靴を脱いだ。……すこし、大人げなかったかもしれない。そうだ。大人げないよ、。たった少しだけのことで、こんなに怒ることはないはずだ。自分の短慮に肩を落としつつ、レンの頭を撫で、「ごめん、こそ」と謝る。すると彼は、下を向いていた顔を上げ、嬉しそうな笑みを彩る。感情の起伏が激しいなあ、と思う。


「良かった、ごめんなさい、本当にごめんなさい、マスター」


 弾んだ声。先ほどの泣きそうな声とは大違いだ。レンはの手に力を加えると、「でも」と続ける。


「僕、どうしても、メンテナンスには行きたくないです」
「……なんで?」


 無意識にこぼれおちた言葉は、至極もっともな問いかけだったと思う。レンは微かに苦笑を浮かべると、言いにくそうに言葉を続けた。


「マスター、僕にはまだ補償が効いているんです」
「補償?」


 こくりと頷き、レンは言葉をすらすらと述べていく。


「もし、もしも、僕が壊れていたら──、僕は返品されて、マスターのところには新しい鏡音レンがやってきます。僕、そんなの嫌です。マスターの鏡音レンは、僕だけで十分、ですよね」


 そうなのか。正直、そんなことはあまり考えていなかった。そっか、と小さく声を漏らすと、レンは恥ずかしそうに頬を染めて、肩を竦めた。申し訳なさそうな声音で、呟く。


「すみません、僕、自分のことばっかり……。でも、僕、マスターとは離れたくないんです」
「……ん、別に良いよ」
「もし、僕が壊れていて、マスターへ危害を加えそうになったら、容赦なく壊して下さいね」
「壊……っ」


 壊す、と言われても、レンはボーカロイド──、ボーカル・アンドロイドな訳だから、皮膚の下は機械で出来ている。殴ってもこっちが痛いだけだし、壊すことなんて不可能に近い。首を傾げると、彼はそっと笑みを零し、「僕には、停止スイッチがあります」と、淡々と説明をしはじめた。


「停止スイッチを押してくださったあとなら、僕は動くことが出来なくなりますから、解体でも何でも出来る、と思います」
「そうなの?」
「はい。停止スイッチの場所は、説明書に書いてあると思いますから、見ておいてくださいね。でも、」


 レンの瞳が的を射るようにに向かう。彼は翡翠のような瞳を揺らし、息を漏らした。


「僕は、マスターには、絶対に危害を加えません。僕は、マスターを守りたいんです」


 何度も何度も、守りたい、と言われても何を返せば良いのかわからない。ただ、頷いて見せると、彼は安心したように微笑んだ。そのあと、の手を引っ張り、「マスター、やっぱり調律より、マスターの昔の写真が見たいです!」と続ける。
 昔の写真、って、アルバムとかの写真だろうか。小さく息を零し、良いよ、と一言、答える。するとレンはその場で満面の笑みを浮かべ、「やった!」と柔らかな、彼独特の声を弾ませた。


 そのあと、夜まで、ずっとのアルバムを見ていた。レンは一枚の、の家族が映っている写真を痛く気に入ったようだったので、あげることにした。すると、彼は跳びはねんばかりに喜び「大切にしますね!」と笑った。つられて、も笑った──。


続く

2008/04/28
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