こいねがう、心 05
 (ウイルスにかかったボーカロイドは、マスターに異様な執着心を見せます)



 朝、目を覚まして布団から這うように出る。今日も昨日に引き続き、休日なので、ゆっくりと過ごすことができる。
 ──何をしようかな。そんなことを考えつつ、枕もとの時計に目を向かわせた。時計の針は、三時を指さして止まっていた。窓に視線を向ける。明るい。三時なはずがない。時計を手にとって、電池がはまっているかどうかを確かめてみる。無かった。
 ──レンが、やったのだろうか。小さく息を吐く。今日が休日で良かった、そう心底思った。

 レンへと視線を向ける。彼はの腰に手を回して、しっかりと抱きしめていた。まるで、逃げないようにするみたいに。目蓋は閉じられ、髪の毛の色と同様の長い睫毛が、頬にかげを落としている。綺麗な色だ。
 頬は軽く桃色に染まっている。が身じろぐと彼はかすかに吐息を零して、回した手に力を込めてきた。苦しい。

 レン、と自由な片手で彼の頬を軽く叩く。レンは眠たそうな声を出して、ゆるゆると目蓋を開いた。碧が覗く。視線が合うと、彼は微笑んだ。


「おはようございます、マスター」
「……レン、時計の電池」
「抜きました。駄目でしたか」


 彼は寝起きを感じさせないはきはきとした口調でしゃべり、笑みの色を濃くする。この前も言ったのに、と言いたくなる。僅かに嘆息を漏らすと、レンは首をかしげた。


「だめ、でしたか……」
「前にも言ったでしょ。今度したら、本当に……、もう、駄目だからね」


 言い聞かせるように言うと、レンはにわかに顔を暗くする。彼はもともと密着していた体をさらにすりよせてきて、「でも」と呟いた。


「そうしないと、マスター行っちゃいます。外に」
「……そりゃあ、そうだよ。だって、行かないといけないし」
「僕は嫌です、それが嫌なんです。マスターだって、大切な人が離れていったら、いやですよね。しかも、外は危険が一杯なんですよ。僕、やだ、やです……」


 彼の瞳が揺れる。そんなことを言われても……。出てきかけた欠伸を噛み殺し、はレンの頭に手を乗せた。優しく撫でる。レンはされるがままに瞳を閉じて、嬉しそうな笑みを浮かべた。


「大丈夫だって。絶対に帰ってくるんだから」
「そう、ですか……? そう、なんですね……、約束ですよ、絶対に、僕のところに帰ってきて、ください」


 レンは瞳を細くさせ、軽やかに微笑んだ。というか、レンの元に──家に、帰ることのできない日なんて、無いだろう。
 レンはそっと笑みを含んだ声で続ける。


「僕のところに、マスターは──帰って──くる──?」


 なんだか、ぎこちない口調だった。それにほのかに首を捻りつつ、素直に頷いておく。
 レンは嬉しそうに笑い声をこぼすと、「よかった」と安どのため息を零す。それを横目に見ながら、はレンの手の拘束を外した。布団から体を出し、「じゃあ、着替えてくるから」と言い、その場を去った。服を持ち、部屋にはレンが居るので、洗面所で着替えることにした。
 服をせっせと着ながら、欠伸を漏らす。眠い。朝っていうのは、なんでこう……あったかくて、眠たいっていうか。
 着替えを終え、洗面所の扉を開ける。ドアのすぐ前に、レンが立っていた。いつものセーラー服を着て、を見、にこりと笑う。

 彼はそっとの手を取ると、腕をからめてきた。体を密着させて、頬を赤く染め、ますます笑みを深くする。
 なんというか、……スキンシップが過剰な気がするものの、悪い気はしないので、注意はしない。
 一歩踏み出すと、レンもと歩調を合わせて歩く。リビングへと赴いて、はテレビの電源をつけた。ぶん、と変な音がしてテレビに画像が映り始める。
 何かしら、事件があったようだ。テレビの前のソファに腰をうずめ、それをぼうっと眺める。
 なんだかしらないけれど、ボーカロイドがマスターを襲う事件があったらしい。……って、え。


「……ボカロが、マスターを?」


 思わず、ぽつりと呟く。襲われたのは男の人で、襲ったのはミク──リンやレンより、先に発売されたボーカロイドだ──らしい。
 襲われた男の人は体を縄で括りつけられて、軟禁状態にされていた。それを、最近姿を見せないから……と、心配して遊びに来た友人が発見、即、警察に連絡して助かった、らしい。
 男の人の近くにはミクが座っていたらしい。男の人の頬をずっと撫でながら、警察が来るまで友人に見向きもせずに、「──マスターは、ワタシのもの、ですよね」と、呟いていた、等々。

 背筋に氷塊が滑り落ちるような感じがした。レンはニュースを見ながら「怖いですね」と微笑んで、に視線を向ける。慌てて、うん、と頷いて見せるものの、わずかに声が震えてしまった。
 レンはその震えに混じった恐怖に感づいたのか、笑い声をかすかに漏らすと、「僕は」と言い、の頬に手を当てた。やさしく、さすってくる。


「マスターに、あんなこと、しませんよ。縄で縛るなんて、信じられません」
「そ、っか。なら──」
「だって、マスターは」


 いいんだけれど、とほっと溜息を漏らそうとした途端、彼の声が遮るように響く。レンはに顔を近づけてくると、吐息が混じりあう近さで、続けた。


「あんなことをしなくても、僕の傍に居てくれるでしょう?」
「──れ、ん?」
「それに、マスターの肌、僕は好きです」


 レンの手がつつつと下り、の首周りを撫でた。背筋が粟立つ。彼はそのまま手を鎖骨のあたりに這わせて、妖しく笑う。


「この柔肌が、縄のせいで真っ赤になったら、嫌です」
「──」


 ニュースを読む声が耳に入らない。心臓がおかしいくらいに耳に響いてくる。危ない、危ない、何かが危ない。彼はの肌に手を這わせた後、微笑んだ。


「僕以外の人が、マスターを触ったりしたら、嫌です」
「……な、に言って」
「マスターの友達も、家族も、──全員、マスターに触れられないように出来たら、良いのに」


 にこりと微笑む彼の瞳は、口角を上げた唇とはうらはらに、笑っていなかった。本気で、考えているのだろうか。にレン以外の人が触れられないようにする、術を。
 怖い、と無意識に思う。頭の中では先ほどのニュースがぐるぐると回る。ミク、それに男の人。ミクは異常なほどに男の人に執着していたらしい。男の人を保護するとき、彼女は狂気に近い感情を見せた、と言っていた。
 彼は、レンは、に執着心を持っている、みたいだ。数日間の間に、それは何故か今まで以上に膨大とした感情として、彼の中に残っている。

 ──が、彼を拒否したら。彼から離れようとしたら、レンはを──件のミクが行ったように、縄で縛るのだろうか。


「レン……は、さ、が……レンから、離れてったら……どうする?」
「……僕から?」
「そう。レンのこと嫌い、って言って、もう家に戻ってこない、なんて言って──」


 そう言った瞬間、レンの手が素早くを掴んだ。骨が軋むくらいに力強く握りしめられる。
 痛い、なんで、急に。レンは顔を伏せると、微かに笑い声を零した。少しして、顔を上げる。


「そんなこと、ありえませんよね」
「な、ちょ、レン、痛い……」
「だって、僕はマスターのことが大好きで大好きで、大好きでどうしようもなくて、本当に本当に、本当に──大好き、なんですよ。マスターだって、僕のこと、好きでしょう?」
「え、な」
「答えて下さい」


 痛い。彼に掴まれている場所は、間違いなくうっけつするだろう。何も言わずに居ると、レンは口のはたに笑みを浮かべ、「──答えて下さい」と、色のない声で続ける。
 答えてくださいの前に、手を離して欲しい。レンと彼の名前を呼ぶ。彼は途端に無表情になると、何も滲ませない声音で、何度も言葉を発した。


「答えて下さい、答えて下さい、ねえ、マスター、答えて、下さい!」
「好きっ、好きだよ!」


 レンの手に力が込められた瞬間、叫ぶように言葉を返す。すると、彼は力を緩めてから手を離した。微笑む。


「良かったです。そうですよね。僕たち、──両想い、ですよね」
「……」
「マスターの好きな人は僕で、僕の好きな人はマスターで」


 笑い声をこぼして、彼は邪気のない笑みを浮かべた。


「両想い、です!」


 は彼に掴まれた手をさすりながら、ただ俯くしかなかった。何を言えば良い。何も言えるわけがない。何かを言ったら──、と思うと背筋が寒くなる。
 レンは笑い声をこぼして、にすり寄ってきた。


「マスター、だあいすき、です……」


 甘い、鼻にかかったような声音で彼は何度も「だいすき」という言葉を呟く。なんだか暗示されているみたいに思えてきた。


「大好きで、大好きで、大好きで──守りたい、です」


 彼の瞳がを覗く。空のような青が揺れる。レンはもう一度、「マスター」とを、呼んだ。声が、濡れている。
 彼は微笑むと、そっと顔を近づけてきた。これは、もしかしなくても──。反射的に目を閉じる。少しして、柔らかい感触が唇に触れてきた。数秒して、彼の唇は離れたものの、正直、何をされるのかと気が気でなかった。一瞬にして緊張が下りる。
 恐る恐る瞳を開くと、彼の嬉しそうな表情が目に入った。


「僕の、マスター」


 気付いた。彼の瞳がにごっていることに。得体のしれない何かが、体中を這いまわる不快感に襲われる。レンはの唇を指でなぞると、もう一度、同じ言葉を呟いた。


「僕のマスター」


 誰にも、触れさせたくない。そう、レンが呟いた声が耳朶を打った。


続く


2008/05/02
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