こいねがう、心 06
(ウイルスにかかったボーカロイドは、正常な判断ができなくなります)


 次の日、時計の音で目が覚めた。良かった、レンは時計の電池を外さなかったようだ。心の中でほっと息をつきつつ、は布団から這い出た。レンが腰に手を回していたから、それを離してから。彼は心地よさそうに眠っている。時折、口をもにょもにょと動かし、そっと微笑みを浮かべる。どんな夢を見ているのだろうか、なんて考えつつ服を着替えた。

 着替えを終えてから、彼の表情を覗き見る。表情を嬉しそうな色で彩った彼を起こすのは忍びない。ちいさく、行ってきます、と呟いてからは外へと出た。

 今日は色々と用事がある。もしかしたら帰るのは夜中を過ぎるかもしれない、なんて考えながら、まあ夜中を過ぎても家に電話をして何かしら伝言を残したら大丈夫だろう。


 そして、案の定、用事を遅くまで引きずってしまった。今や、人々が静まりかえる程、遅い時間だ。
 小さく嘆息を漏らしながら、家へと電話をかける。用事途中で彼に電話をかけることはできなかったので、レンには今の時間まで何も言えずじまいだった。彼は怒っているかもしれない。電話は、ワンコールで、つながった。


「……あ、レン?」
「ます、たー……」


 電話越しに聞こえる声は、荒い息を伴っていた。なんでだろう、なんて考えながらも言葉を続ける。


「ごめんね、今日はちょっと用事があって、遅くなっちゃった」
「……い……」


 声が重なった。何を言っているのだろう、なんて思って言葉を留め、耳を澄ませる。レンは、何度も何度も同じ言葉を呟いていた。


「ひどい、ひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどい」
「……れ、ん?」
「なんで、なんでですか。僕に黙って出て行ったりして、どうして、どうしてですか? 僕、なにか悪いことをしましたか? どうして? なんでですか? 僕のこと嫌いなんですか」
「え、ちょ……」


 言葉をさえぎるタイミングが見つからない。レンは悲痛さを交えた声で、何度も何度も「ひどい」という言葉を呟いた後、沈黙した。かすかに洟をすする音が、聞こえる。
 そこまで、酷い、ということだろうか。聞こえないように嘆息を漏らす。「あのね、レン」と呟いた、とたん、は誰かに肩をつつかれた。
 変な声が出る。勢いよく振りむくと、にボーカロイドを進めた友人が立っていた。彼女も、と同様の用事があって、遅くまで残っていたのだ。
 彼女はの様子を見て、笑う。レンの疑問をはらんだ声が聞こえてきた。


「誰か、傍にいるんですか」
「え、あ、うん、友達が……」
「なになに、誰と話してるの? もしかして、前に買ったボカロ?」
「ちょ、静かにして」


 しっし、と手を振り払って追い払おうとするのに、彼女はおかしそうにの電話相手を探ろうとする。レンが小さく息を吐く音が、電話越しに掠れて聞こえた。
 友人が「ボカロといえばさ」と続ける。


「レンを買ったんだよね」


 声に出さず、頷く。彼女は「ならさ、今度のカイトを貸すから、レンを貸してくれない?」と提案をしかけてきた。
 ひゅ、と息を吸う音が聞こえた。レンの出した音、だろうか。友人の声が聞こえていたのかもしれない。
 レンは小さく、何事かを呟いた。聞き取れなくて、何を言ったの、と訊き返そうとした途端、電話が途切れた。つー、つー、という無機質な音を立てる携帯を見て、呆然とする。

 友人が「ね、良いでしょ?」と首を傾げるのを見てから、「まあ、考えておくね」と曖昧な返事をして、は帰路を急いだ。
 なんというか、とてつもなく、嫌な予感がする。


 家へ帰って、扉を開く。灯りは点けられておらず、薄暗い。電気を入れると、廊下にパッと明かりがともった。
 レンは、居ない。

 リビングまで歩く。電気をつけて、レンの名前を呼ぶと同時に、は誰かに押し倒された。頭をしこたま打つ。痛みで視界がにじんだ。誰か、はの手首をつかむと、怒ったような声を出した。


「ひどいです」


 のおなかの上に、馬乗りになってレンは言う。逆光のせいか、表情が上手く読み取れない。


「ひどい、って、なにが」
「どうして、朝、起こしてくれなかったんですか」


 話がつながっていない。痛む頭をさすりたいのに、少しでも掴まれた腕を動かすとレンの爪がぎり、と食い込んでくる。思わず声を出しそうになった。
 レンは悲痛な声で、続ける。


「マスター、僕はいやです」
「何が……」
「マスターが、目を覚ましたら居なくて、僕、泣きそうになりました。どこを探しても、マスターは居なくて、僕、僕──」


 レンの顔が悲痛に染まり、やがて、笑みに変わった。


「マスター、マスターのボーカロイドは、僕だけで十分ですよね」
「へ……」
「お友達さん、ですか。カイトと僕を取り換えっこなんて、しませんよね」


 だって、マスターのボーカロイドは僕だけなんですよ? そう言って、にっこりと笑みを浮かべるレンに、恐怖を感じる。
 何を言ってるのだろう。──レンは、そっと口のはたに笑みを乗せると、「マスター」と続けた。


「お友達さんに、何処か、触られましたか」
「……え、あ、か、肩、とか……」


 急に、何を訊いてくるのだろう。不思議に思いながらも、答えを返すと、レンの顔がぐっと近づいてきた。な、なに。なんなの。
 彼はの肩に顔を埋めると、──なめて、きた。
 ぞわぞわとした感触が背中を駆け巡る。


「ちょ、何やって、レン、止めて!」


 レンの舌はかすかに湿り気をおびていた。肩全体をちろちろとなめられる。こ、な、マジで何をして……!
 怒りと羞恥で顔が真っ赤になる。彼はすっと顔を上げると、首をかしげた。


「何、やってるの……」
「舐めているんです」
「それは、わかっ、ってる!」


 何で、そんなことをするのかと訊いているのに。レンはいぶかしげな色を瞳に浮かべると、「なんで怒っているんですか」と問いかけてきた。


「考えればわかるでしょっ、どいてよっ、どいて!」


 大きな声を出すと、レンは悲痛な色を瞳に宿らせた。「……僕は」と呟き、の手首をつかんだ手に、ますます力を込めてきた。骨が軋む音がする。
 なんで、なんなの、一体。涙が出てきた。視界がゆがんで、次いで頬に熱いものが伝う。


「──なんで、泣いているんですか」
「……わかるでしょっ」


 語調が荒くなる。レンは小さく息を吐くと、わかりません、と呟いてに顔を寄せてきた。彼の赤い舌が覗き、それが頬を撫でるように舐める。
 やめてほしい。何がしたいの、と言いたくなる。何か、よくわからないもので胸が締め付けられる。舐められた部分には、たぶん、彼の唾液が跡を残しているだろう。


「もう、止めてよ……、朝に何も言わずに出て行ったの、謝るから。ごめんなさい……ごめんなさい……ごめっ、なさ、い……」


 彼の舌が離れる。涙がおかしい程に出てくる。きっと、今、顔はグチャグチャになっているだろう。
 レンの手の力が弱まる。はすぐに手を振り払うと、顔を覆った。嗚咽が止まらない。

 なんでこんなにも悲しいのか、よくわからない。ただ、なぜか悔しくて、切なくて、どうしようもなく、悲しい。
 レンがなんで泣くんですか、と言う。その声さえも、今は何故か腹立たしく耳に響いてくる。彼に、泣き声を聞かれたくない。息をのみこんで必死に声を漏らさないようにするものの、声は水のように口から滴ってくる。


「なんで、なんで泣くんですか? 僕、わからない、マスター、どうして」
「……レンの、馬鹿……っ」


 ようやく絞り出せた言葉。レンの体が震える。


「レンなんか、嫌いだよ、嫌い……っ」


 え、と言う呟きが聞こえてきた。片方の手を、彼を追い払うようにがむしゃらに振る。べちん、と音がした。たぶん、彼の頬かどこかに手が当たったのだろうと思う。

 いやだ。もう、いやだ。彼はおかしい。絶対にメンテナンスに行くべきだ。いや、行かせなくては、ならない。
 振り回していた手が、そっと掴まれた。レンに掴まれた──。振り払うべく、何度もがむしゃらに振るのだけれど、彼の手は離れてくれない。


「どうして、ですか……」


 呆然とした声だった。思わず口から漏れ出たような、そんな声音。──ぼやけた視線で見上げるレンの顔は、歪んでいた。


「どうして、僕のことを、嫌うんですか」


 レンの声が熱を帯びていく。明らかに、怒気が混じった声で彼は「どうして」と続ける。


「どうして、どうして、どうして、僕は──マスターのことが、好きなのに──」


 肩を掴まれ、揺すられる。頭が小刻みに動き、床とぶつかる。痛い。抱えるように頭を持ち、外部の衝撃から身を守る。
 どうして、どうして、どうして、と彼は一通り呟いた後、小さく笑い声を零した。


「うそ、ですよね。だって、僕のマスターがそんなことを言うわけがない」


 頼むからどいて欲しい。おなかが、彼の体重に圧迫されて苦しいのだ。小さく、どいて、と言う。彼は体を振動させると、頭を振った。


「やだ……いやです……」
「どいて」


 レンは手で頭を抱えて、何度も何度も頭を振った。やだ、やだ、やだ──、悲しみに濡れた声が耳を突く。いつもだったら、かわいそうに思って、しょうがないなあ、とでも言うだろうけれど、今のにはそんな余裕が無い。
 もう一度、声を強くして叫ぶように言った。


「どいて!」
「……や、だあ……、ます、たー、やだよお……」
「どいて、って言ってるのが聞こえないの!?」


 レンが悲愴な面持ちを浮かべて、の上から退いた。すぐには立ち上がり、部屋へと戻る。むしゃくしゃしていた。早く寝て、気分を落ち着かせたい。
 が歩くと、あとを追うようについてくる足音があった。振り向いて、レンを見る。彼は泣きそうな表情で、の服の裾をつかんだ。
 くいくいと引っ張り、ゆるゆると俯く。


「ごめんなさい……嫌わないで……僕、マスターに嫌われたら、どうしようもなくなる……」
「……離して」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。レンが顔を上げて、涙交じりの声で続ける。


「やだ……マスター、ごめんなさい……ごめんなさい……どうしたら許してくれますか……」
「離して」


 これ以上話していると、彼を傷つける一言を発してしまうだろう。嫌い、よりも酷い言葉を吐いてしまうかもしれない。
 手を振り払うようにして、は部屋の中に入ろうとする、けれど、後ろから抱き締められて行動を止められた。
 イライラしてきた。……なんなの? 何度もはなして、って言ってるのに。


「マスター、ごめんなさい、お願いです、許して下さい、どうしたら許してくれますか……僕のこと、もう」


 好きになってくれないんですか。レンの声にしゃくりが混じる。早く放して欲しい。色々と衝撃的なことが起こったから、一人で居たいし、考える時間が欲しいのに、レンは邪魔ばかりしてくる。
 嘆息を吐く。何も言わずに彼を振り払い、は素早く部屋に体を滑り込ませ、扉を閉めた。レンの絶叫に近い声が、扉越しに響く。


「やだ、やだああああ!! ごめんなさいマスター、やだ、やだ、やだ、やです、お願いだから開けて下さい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ、いいぃ!」


 扉が叩かれて、軋む。彼が中に入ってこないように、扉に体重をかけた。震動が、体に伝わってくる。レンは時折せき込み、何度もしゃくりをして、かすれた声を発しながら、扉をたたき続ける。


「やだ、やだ、やだ! ごめんなさい、マスター許して、許して、許して下さい、僕、僕にはマスターしか居ないんです、マスターに嫌われたら、僕っ、やだ、やだ、あっ」


 しだいに、彼の声は治まって行った。扉越しに涙を流すのを必死にこらえるような、そんな呼吸をする音が聞こえてくる。時折、ひきつけのようなものを起こしながら、レンは小さく「マスター」と呟いた。

 やりすぎた、とは思う。彼の泣きそうな声を聞いているうちに、そうは思った。けれど、まさか肩をなめられたり──まさか、馬乗りされる、なんて思いもしなかったのだ。その時感じた恐怖は計り知れない。だからか、許すことはできなかった。
 怒りの炎は時間が過ぎると共に次第に勢いを減らしていく。けれど、どうしても許すことが出来ないのは──、どうしようもなく悲しくて辛くて、それに、悔しいからだ。

 何が悔しいのか、自分でもよくわからない。ただ、悔しい。涙がまたぼろぼろと瞳から溢れて来た。嗚咽がそれにつれて、出てくる。洟をすすっては掛け布団を手繰り寄せた。体に巻きつけて、瞳を閉じる。

 レンの声は、止まっていた。


 ──次の日の朝、は時計の音で目を覚ました。巻きつけた布団を身からはがし、のろのろと時計まで歩を進めた。目覚ましを、とめる。小さく欠伸をこぼして、は着替えをしてから扉を開けようとして、戸惑った。
 この扉の向こうには、レンが居る。昨日の恐怖がよみがえってきて、はどうしようもなくなった。……悪いことをしたかもしれない。けれど、レンも──ひどいことをしてきた、と思うのは、ダメなことなのかもしれない。

 嘆息を漏らす。謝るべき、なのかもしれない。けれど、どうしてもそれが出来そうにない。
 もう一日、頭を冷やすべき、だろう、は。ぐっと力をこめて、扉を開いた。
 レンは扉に寄りかかって寝ていたのか、扉を開いた途端、体がかすかに部屋へと雪崩れるように倒れ、すぐに体制を取り戻した。起きたのだろう。に気が付き、かすかに頬を赤くして、視線を合せてきた。……が、すぐに視線をそらしてしまったけれど。

 彼の「ます、た……ごめんなさ……」という、かすれた声が耳朶を打つ。
 それに言葉を返さずに、は玄関へと向かった。レンが声を震わせて、続ける言葉が背中にぶつかってくる。


「ごめんなさい、ごめんなさい……僕のこと……嫌いにならないで……」
「──今日も、遅れるかもしれないから」


 今日は用事なんて、全くない。ただ、どうしても彼と同じ場所に居るのが、辛かった。レンの涙をこらえるような、息をのむ音が聞こえて、次いで、かすかな笑い声が聞こえてきた。
 彼のほうへと視線を向ける。彼は、泣きながら笑っていた。


「ふ、あは、あはは」
「な……」


 彼の笑い声は止まらない。呆然としてその場に静止するものの、少しして気を取り直し、語気を荒めて言葉を続ける。


、もう行くから」
「──マスター」


 レンのひやりとした声が耳朶を打つ。彼は、涙を瞳から滴らせながら、続ける。口のはたに笑みが浮かんでいた。


「僕のこと、嫌いでも……僕が大怪我を負ったら、心配、してくれますよね」
「なに……」


 言ってるの、と言おうとして、それは変な音に遮られた。
 ぶち、というゴムがはじけるような音、金属のこすれる高い音、形容しがたい、音が、場を満たす。


「な……」


 目にした光景が、信じられなかった。
 レンが、右手に左手で掴んで、ねじりながら引きちぎろうとしている姿なんて、誰が理解できるだろう。
 彼の皮膚が千切れる。下から金属色がのぞいた。彼はそれを認めると、表情を曇らせる。鈍い色が光を照り返して、てらてらと揺れる。彼はそれをどうにかして取ろうとしているのか、腕を掴んで、ねじっていた。変な、コードか何かが切れる音、だろうか。それが響く。

 腰から力が抜けたのと、彼の手が完全に体から離れるのは同時だった。彼は取れた腕を見て、にっこりと笑みを浮かべて、に投げつけてきた。の目の前に、レンの腕だったものが、落ちる。
 恐怖のせいか変な声が出た。レンは尚も嬉しそうに笑うと、愉快そうな声音で言葉を発した。


「心配、してくれますよね」


続く

2008/05/03
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