こいねがう、心 07 (これらの症状が見つかったら、あなたのボーカロイドはウイルスにかかっている可能性が高いです) レンの左腕から、ぽたりぽたりと何かが床へと落ちている。むんとした匂いが立ち込めてきたから、きっとオイルか何かなのだろう、なんて憶測をつけた。オイルは彼の左腕から、はみ出しているコードから垂れていた。じじ、と微かに音を鳴らして存在を主張するそれは、どうしようもなく滑稽で、気持ち悪かった。何十本もの細いコード、その真ん中にある人間でいえば骨の役割を果たすのだろう金属の支柱、それに引きちぎられたせいか異様な姿を見せる皮膚、鼻につくような臭気──。 知らず、胃の内容物がせりあがってくる。吐きそうだ。おなかを抑えて、荒い息を零す。レンが微かに笑って、近づいてくるのが見えた。むんとした匂いが強くなる。 レンは右手での頬を掴むと、微笑んだ。 「ねえ、心配ですか」 「……レン……」 「僕のこと、心配ですよね」 彼はの顎を持ち上げると、嬉しそうに笑った。そっと唇を近づけてきて、触れる。やめ、と言おうとして、言葉が続かなかった。 口内に急激な異物が進入してきた。反射的に背筋が粟立つ。何か、が、の口内をなぶるように荒れ狂っていた。 これは、もしかしなくても。レンの胸を叩く。涙で視界が滲んできた。 異物はの口の内壁を擦るようになめ上げ、の舌に絡んできた。辛い。頬に涙が伝う。やめて欲しい。やめて、やめ、やめて──! 唇が離れた。伝うように一本の線が出来て、ぽつりと滴って途切れた。レンがこわく的に微笑むと、の唇をなめ上げる。 「心配、ですよね」 「……」 何も言う気力がない。ただ、どうしようもない嘔吐感だけが身を苛む。彼から離れたいのに、どうしても逃げることが出来ない。腰が抜けてしまって、足がガクガクと震え、立つことさえ、出来ないのだ。 レンは肩から手を離すと、の手に自身のそれを絡めてきた。嬉しそうに微笑み、近くに転がっている左腕を、片足で蹴った。金属音を立てて、左腕が転がっていく。 その後、すっくと立ち上がり、彼はの体を引いた。立ち上がるものの、どうしてもそのままの体制を維持できない。レンに寄りかかるようになってしまった。レンはをそのままずるずると引っ張ると、リビングのソファーに座らせた。の膝の上に跨ぐように乗って、嬉しそうに笑う。 「外は危ないですから、中に居ましょうね。大丈夫です、別に用事を休んだって何も言われませんよ。解雇されるか、休み扱いにされるか、どっちかです」 「……や、だ、外、行きたいよ……、外に行く、から、どいて……」 「駄目です。どうせ逃げるつもりですよね。それよりも、僕のことを心配してください」 震える声で告げた言葉は一蹴された。レンはコードをに見せつけるようにして、笑う。 「ねえ、心配ですよね。このままだと、僕、壊れちゃいます」 「……そ、んな……」 「心配ですか、寂しいですか? 大丈夫ですよ。壊れるときは一緒です」 壊れるときは、一緒? どういう、意味なのだろう。疑惑を交えた瞳を彼に向ける。 レンはそっと微笑むと、右腕をの首に押し当てた。 「僕、ちゃんとマスターを殺してから、壊れるから、大丈夫です。寂しくないですよ」 「……な、に、言って……」 殺す、なんて、何を言っているのだろう。背筋が寒くなる。彼の左腕の損傷から見るに、壊れるのなんて時間の問題だ。殺される。殺されて、しまう。体が震える。きっと顔色は青くなっている。 レンはの頬をそっと撫でると、軽く微笑んだ。 「涙、一杯出てます。どうしてですか? 僕、よく、わかりません」 何を言うことも出来ない。レンは光をなくした瞳でを見つめると、とたんに無表情になった。 「……マスターは、僕のもの、ですよね?」 「……な、に、言って……」 「マスターは、僕のもの、ですよね」 レンは何度もその言葉を繰り返す。頭の中に、ニュースがフラッシュバックした。ミク。『マスターはワタシのもの、ですよね』と呟いていた。 もし、もしも、それに反発してしまったら、どうなるのだろう。……考えたくも無い。きっとレンは、すぐにでもを殺そうとするかもしれない。殺されるまでの時間を延ばすには、レンの言葉に逐一、頷いていたほうが、いいだろう。 頭を縦に振る。言葉にする気力は無かった。レンの笑う声が耳朶を打つ。 「良かった。ねえ、マスター、壊れるときは一緒ですよ。……一緒です……」 「……、は、レンに長生きして欲しいよ……、ねえ、直そうよ、メンテに行こうよ、危ないよ」 泣きが混じった声で紡ぐと、レンの笑い声が止まった。──地雷を、踏んでしまった? レンはかすかに頭を横に振った後、ゆるやかに笑みを顔に浮かべる。 「最初から、おかしかったんです。やり直さないといけない」 「……な、にが」 息を呑む。彼は口角を上げて口だけで笑うと、続けた。 「僕はボーカロイドで、マスターは人間で。人間になりたかったけれど、方法なんて、見つからなかった」 「……え……?」 「ボーカロイドは人間と結婚できません。それどころか──性交だって出来ない」 何を言っているのだろう。だって、言っていたじゃないか。「人間になる方法、あったんです」って、前に。 アレは嘘だったのだろうか。が見たとき、検索結果はゼロだったけれど、言っていたのに。「あった」って。 レンはゆるやかに首を振ると、「だから」と笑いを滲ませた声音で続ける。 「一緒に、壊れましょう。大丈夫です、マスターが死んだ後に、僕と一緒に縄で括るだけですから、痛くないですよ。そしたら、ずっと一緒に居られる。ずっと、誰よりも近い場所に、居られる」 想像するに難くない。レンはきっと、絶対に、する。を殺した後に、縄で自分の体との体をぐるぐる巻きに括りつけるのだろう。きっと、嬉しそうな笑みを浮かべながら。 嫌だ。まだ死にたくない。こんな所で、死にたくは無い。まだまだ若いのに、どうして死ななければならないんだ。 涙が出てきた。レンが首を傾げてを見る。どうにかして、どうにかして、彼の左腕を直さなければならない。でも、どうやって。は機械工学なんて全然習っていないし、ましてや直そうとしたら彼は本気で怒るだろう。 説得だって、きっと、出来ない。レンの決意は固い。の目の前で左腕をもぐほどに、強いのだ。 そのシーンを思い返すと、吐き気がこみ上げてきた。吐きそうだ。口を抑え、レンにすがるような視線を向ける。 「ちょっと、お願い、どいて……気分、悪い……」 「どうして?」 「お願い、どいて、どいてよ……どいて下さい、お願いします」 駄目だ、吐く。吐いてしまう。彼の左腕から発せられる臭気は強くなってきたし、廊下へと視線を投げかけると、白い腕がころころと転がっている。 退いてもらおうにも、彼はどうやっても退いてくれないみたいだ。涙が又、溢れてきた。誰か。助けて。誰か、お願いだから。 ぐ、と喉が引きつった。必死にレンから上半身を背け、は胃の内容物を吐き出す。涙が溢れて、口の中に入ってきた。塩辛い。 レンが「ああ」と頷いた。すっと、何かを理解したような声。 その声が耳に入ってくると同時に、誰かに吐く場面を見られた、ということがとんでもない羞恥になってに襲ってくる。吐いたからか、喉に苦いものが残った。口をすすぎたい。又もや出てきそうになった内容物を必死に飲み込む。 レンが「大丈夫ですか」と、の背中をさすり、小さく息を零した。 「吐いちゃったんですね。そんなに気持ち悪いですか、僕の姿」 「……」 何も返すことが出来ない。というより、吐いたことによってか、何も考えることが出来ない。頭がずきずきと痛む。咳が出てきた。むせる度に、苦いものがこみ上げてくる。レンはの手を取り、ソファーから立ち上げさせると、洗面所へと連れて行った。蛇口を捻り、水を噴出させる。 「口、すすぎたいですよね。その間に僕は処理をしてきますから」 レンはそう言うと、踵を返してリビングへと向かった。彼が居なくなったとたんに、は嗚咽が漏れてきた。水が噴出する音にまぎれて、きっとレンには聞こえていないだろう。 どうして。どうして、がこんな目に会うの? ずるずると洗面所の隅っこに身を寄せ、膝を抱える。嘔吐する場面を見られたのも嫌だし、左腕を引きちぎる場面が頭の中で何度も再生されるのも、嫌だ。一緒に壊れましょう、なんていわれたのも嫌だ。こんなの、心中とほとんど同じじゃないか。 レンは短期間のうちに変わってしまった。驚くほどに、おかしい方向へ。 どうしたら、どうすれば、直せる。考えろ。──そういえば、レンは前に停止スイッチがある、って言っていた。それを押せば、レンは停止する、はず。その時は簡単に受け流していたから、スイッチの場所なんて、見ていなかった。見ればよかった、なんて心の中で思う。 たしか説明書に書かれていると言っていた。……そうだ、説明書はどこにあるのだろうか。見たら、きっと、彼を止めることが、出来る。 そう思うと、俄然やる気が沸いてきた。動かない足を叱咤して、水に口をつける。うがいをして、口を拭った。大丈夫、大丈夫だ、きっと、止めることが、出来る。 蛇口を捻り、水を止める。よろめきながらリビングへ戻ると、レンが雑巾での嘔吐物を拭いているのが見えた。に気付き、作業を止める。 「マスター」 「……レン、ちょっと、、捜したいものがあるんだけれど……」 捜したいもの、とレンはおうむ返しに呟き、笑った。 「説明書のことですか?」 体が震える。レンはくすりとかすかな笑い声を滴らせ、に近づいてきた。自身の体を密着させると、囁くように続ける。 「あれ、破きました」 「……え……?」 愕然とした声が、口を突いて漏れる。レンは雑巾をぽとりと落とすと、笑い声を零した。 「だって、有ったら、邪魔です。あれには僕の停止スイッチについても書かれているから」 「……い、つ、いつ、破ったの」 「昨日です。マスターが部屋にこもってしばらくしてから、破って捨てました」 ──足元から、力が抜ける。へなへなと座り込むと、レンも同様にの目の前で座り込んだ。柔らかく笑みを浮かべ、「停止スイッチで止められたら、困りますから」と続ける。 どうしようも、ないのだろうか。小さく「教えて」と漏らすと、レンは尚も軽く笑みを漏らし、「マスターに問われても、僕には答えることが出来ません」と言い、「第一」と言葉を紡ぐ。 「僕でさえ知らないんですよ。捜してみたらどうですか。きっと見つかりませんけれど」 そう言うと、レンはに近寄ってきた。捜すって、どうやって。一々、レンの体をまさぐれと言うのだろうか。出来ない。には、出来ない。 首を横に振ると、レンはそっと笑みを零し、雑巾を拾い上げ、何処かへと持っていった。多分、洗濯機のところへ持っていったのだろうと思う。 きっとスイッチは、の想像がつかないところにあるに違いない。日常的に触る場所でないことは確かだ。 きっと、触りまくれば見つかるだろう。けれど、だからといって、彼の上半身や下半身をくまなく捜すというのは、抵抗がある。 ぐ、と唇を噛んだ。恥も外聞も捨てて、彼の体をくまなく捜せばいい。けれど、もし、探し回って見つからなかったら、どうする。どうしようもない。レンはが諦めたら、きっと嬉しそうに笑うだろう。「見つかりませんでしたね、マスター」なんて言って。 だいいち、捜している間にレンが壊れるときが来たらどうする。殺されてしまう。最後まで希望を捨てずに捜すことなんて、には出来ない。 誰か、助けて。助けて欲しい。 レンが何処からか戻ってきて、の目の前に又、座り込んだ。嬉しそうに笑う。 「これからは、ずっと一緒です。お風呂だって、寝るときだって、いつだって、全部、ぜえんぶ一緒ですよ」 「……やだ……、やだよ……死にたくない……レン、やめてよ、助けて」 言葉が繋がっていないのは百も承知のことだ。ゆるゆると頭を振るの思考を占めるのは「死にたくない」という言葉、ただそれだけだった。 レンが首を傾げる。どうしてですか、といつもの調子で問い掛けてきた。 「ねえ、、生きたいよ。まだ、死にたくないよ。お願い、お願いだから、レン、殺さないで……」 「……でも、僕は、一緒に壊れたいです。ねえ、マスター、一緒に壊れてください」 「やだ、やだ、やだ、やだあっ、死にたくない、死にたくないよ」 頭と膝を抱えて、は涙を零した。レンがにすりよってきて、「死ぬのがこわいんですか?」と問い掛けてくる。恐いに決まっている。頷く。 レンが微かに笑い声を漏らし、「大丈夫ですよ」と呟いた。 「だって、僕も一緒に壊れますから、恐くありません」 レンの手がそっとの頭を撫でる。は嗚咽を耐え切れずに、零してしまった。 →続く 2008/05/06 |